創設当時の写真

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ココニテ行動美術協会結成ス

愛知県碧南棚尾の妙福寺という大きいお寺へ少しむくんだ顔の、異様な風体の男が七人、リュックをかついで東と西からたどりついたのが行動美術協会というものの形をととのえようとした最初の集りであった。岡崎市の小野英一という篤志家と、妙福寺の加藤良信和尚の奉仕的な好意によった事を忘れてはならない。

田辺、田中は、その頃は万里の果ての距離ともいえる北海道にあった・・・(創立10周年記念号“行動”古家新追憶文より)当時東海道線は鈍行だけで車窓から乗降客は網棚から屋根の上まで溢れた。「万里の果ての北海道」も誇張ではなく、東西の中間棚尾を選んだ意味も痛いほど良く解る。

第1回行動展(旗上げ展)会場の記念撮影

新会員田川寛一・三芳悌吉・伊藤久三郎(飯田清毅欠席)を迎えて勢揃いしたところ。このたたずまいは敗戦を感じさせないが、開会第一日は初めて自由を得たメーデーの行進が三越の前を通った。屋上に出て見ると通りには歓呼と労働歌と赤旗の波が日本橋の方から押しよせるようにやって来るのが見えた。
一方会期中に法務庁のお役人が来場、油絵10数点のお買上げがあって一同驚愕歓喜という話は今では昔話になってしまった。(三芳悌吉談による)

第1回展出品者懇談会

会場は焼け残った精養軒、さすがに地方出品者の顔は2、3人程度。中央ひげのある人は来賓 鶴田五郎氏-戦争中推進隊の東京支部長。

ちなみに翌年第2回展の懇談会の案内状によると、同じ会場で「会費百円(弁当持参)」とあった。

10年後の全会員

第11回展の鑑査直前の勢揃い36人(全員揃えば49人)

炭坑地帯での講習会

第1回展を翌年6月北海道へ移動、伊谷と向井が田辺・田中と共に「会期中幌内美唄芦別各炭坑を訪問、講習会をやりつつスケッチを収穫した」(会報第2号より)

見るからに平和の光を浴びて…という雰囲気であるが、よく見るとパネルは角材の枠に板を張り詰めたものである。
左端しゃがんでいるのが伊谷、中央が向井。

史上空前の移動鑑査

1946(昭和21)年8月25日京都会場人文学園に於ける鑑査スナップ、カンバスも額縁も戦災を免れたものばかりであろう。手前から伊谷・向井・古家・榎倉の四会員すべて横顔……

第2回展の鑑査風景

彫刻室へ移ると共に早くも大作時代が到来。丸窓から降り注ぐ直射日光が足下に影を落している。進行係は小出。

第1回大阪地方展の盛況

入場料3円全額同胞援護資金に寄託、かくて地方移動展の口火が切られた。

*「行動美術35年の小史」 より引用